2021年9月20日放送の『激レアさんを連れてきた。』を見ました。
今回の激レアさんは「そのイメージとは裏腹に超わがままな父・相田みつをに振り回されて育った息子、カズヒトさん(相田一人さん)」です。
この激レアさんは予告の時から楽しみでした。
登場したカズヒトさんはとても上品なおじさまという感じの男性で、ただお父様が相田みつをさんというだけであれば、妙に納得ができる品の良さを感じる方でした。
でも早速出たタイトルが「そのイメージとは裏腹に超わがままな父・相田みつをに振り回されて育った息子」ですもんね。
すごく興味があります。
◆ゲスト
山本舞香
濱口優(よゐこ)
▽目次です▽
相田みつをといえば「いのちの詩人」
- 相田みつをさんといえば、書家であり詩人でもあり「いのちの詩人」とも評される人物。
- 「人間だもの」など相田みつを関連書籍は累計2000万部超えの大ヒット。
- だが相田みつをさんが有名になったのは死後。
- カズヒトさんは相田みつをさんの長男。31歳の時の子ども。
長男カズヒトさんの命名が斬新すぎた
- 斬新すぎたカズヒトさんの名前⇒たくさんの没候補があった。「一人」になったが元々は違った。
- 命名①平凡:平々凡々でもいいから自分の足で歩いて行って欲しいという思い。⇒母方のおばあちゃんが泣いて止めた。幼稚園や小学校でいじめられるのではという懸念。
- 命名②凡平(ぼんぺい):三日三晩徹夜して考えたのがコレ。「今度こそいいのができた」と自負。⇒母方のおばあちゃんが泣いて止めた。(2度目)
- 最終的に一人で何でもやっていけるように、「一人」と命名。
- カズヒトさんがまだお腹にいる頃にも、みつをさんは友人に子どもの名前候補をあげていた
- 他の命名「どん底」⇒当時のみつをさんは人生のどん底にいるので、それを記念して命名。⇒友人が説得して止めた。←「相田どん底だったらたけし軍団にいそう」と若林。
極貧だったが筆と紙は高級
- みつをさんは30歳で「筆1本で生きていく」と決意し、筆以外の収入は得ないとした。
- 書家として、詩人としての生き方にこだわったため、極貧生活だった。
- 母や母方の親戚は「夢ばかりで現実がない男でダメ」と評していた。⇒カズヒトさんも「まさにその通り」と納得。
- 当時大卒の初任給が1万5千円の時代に、みつをさんは30万円の筆を購入。
- さらに練習でも本番用の高級紙を使用。⇒中国から取り寄せた画仙紙。
- 調子が良く何枚も書く時は、1日で3万円分くらいの画仙紙を使ってしまうことも。⇒今の金額では何十万。
- これらの代金はすべて「ツケ」で払っていた。⇒母がお金を工面して少しずつ払っていた。
- 当時を知っている筆や紙屋からは「相田みつをさんは信用なかったけど、奥さんは信用してた」と言われていた。
- 相田みつをさんは「書が第一主義」。
- 相田家は8畳一間を間借りしていた。
- その隣に30畳ほどの建物をみつをさんは仕事場(アトリエ)として使用を独占。
- 30畳を半分の15畳ずつにし、座って書く用、立って書く用に分けていた。
- 書き損じた大量のボツの書はトイレットペーパーとして使用。⇒「今思えば、中国の画仙紙なのでとても高級」とカズヒトさん。
- 相田家には当時三種の神器と言われた、テレビ、洗濯機、冷蔵庫はなかった。
- 暖房器具もなし。
- 風呂もなし⇒銭湯はお金がかかるので頻繁には行けず⇒家にあった大きな釜で五右衛門風呂にしていた。
相田みつを流の教育
- 「世話になったら礼状を書くべし」⇒かなり厳しく言われた。
- 近所の友人宅に遊びに行ってご飯をご馳走になると、そのお礼を書けと言われた⇒目と鼻の先で毎日会っているのに礼状を書くのが苦痛⇒夕食前に必ず帰るようにした。
- 「一生勉強 一生青春」⇒代表作の1つでもある言葉。
- カズヒトさんが大学受験を落ちて浪人になることに。⇒そういう余裕はなかった家だったが、みつをさんは無理をして東京の予備校に通わせてくれた。
- ある時、仕送りを持ってきたみつをさんと上野の不忍池で待ち合わせ。⇒みつをさんがしょんぼりしていた。年齢が47~48歳なのに目が出ないことに憂いを感じていたのではとカズヒトさん。
- それを見たカズヒトさんは「一生勉強 一生青春と言うわりに元気がないじゃないか」と言ってしまう。
- その後大学合格をしたカズヒトさんにみつをさんが「お前の一言でいい作品が出来た」と言う。⇒その作品が名作「道」。
父・相田みつをが「世の中に必要」と証明された
- みつをさんが亡くなって5年後。カズヒトさんは会社を退職。⇒相田みつを美術館をオープン。今から25年前。
- 当時はまだ相田みつをの知名度は低かったため、集客できるかわからない状態だった。
- それでもオープンしたのは、「父の作品をちゃんと見ていただきたい」という想いから。
- みつをさんは「世の中に必要であれば自然と残る。世の中に必要とされないものは残らない」と言い、さらに「自分の死後、美術館なんてものは考えるなよ」と言っていた。
- それでもカズヒトさんがオープンしたのは、作ってみなければ世の中に必要かは分からないのでは、という想いがあった。
- じわじわと相田みつをの人気があがり、見事「世の中に必要だった」と証明された。
◆◇◆ ◆◇◆
ラベリングは「相田みつを をツッコめるただ『一人』の人」(激レアさん No.263)でした。
◆◇◆ ◆◇◆
確かに破天荒な相田みつをさんでしたけど、「世話になったら礼状を書くべし」の部分で人としての大事なことはキチンとされていたということでしょう。
そういう部分を息子さんはしっかりと引き継がれていて、お父さん想いの息子さんに育ちました。
美術館を銀座にオープンさせたのですから、いろいろ苦労もされたことでしょう。
カズヒトさんを支えてくれた方がたくさんいらしたのではないでしょうか。
もしかしたら、みつをさんを支援してくださっていた方々かもしれませんね。
「世の中に必要であれば自然と残る。世の中に必要とされないものは残らない」という言葉はとても重い言葉ですけど、生きている限り何らかの影響を誰かに与えている可能性は誰しもがありますし、可能性もあるでしょう。
これからも相田みつをさんの作品で勇気や希望、癒しを貰える方はたくさんいるでしょうから、作品に触れたことがない方もぜひ1度触れられるといいと思います。
相田みつをさんにはすごい才能がありましたからよかったですけど、そうじゃなかったらと思うとそりゃ恐ろしい気もしました。
奥様は本当に大変だったと思います。
しっかりお金を工面して支えていたんですもんね。
「世の中に必要だった」人でよかったです。
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